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JAZZとROCKが 三度のめしより好きな おっさんの戯れ言

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9月1日に配信された、まぐまぐニュースからちょっと気になるニュースを。


(以下まぐまぐニュースより)

韓国のポップソング“K-POP”に奇妙な現象が起きている。

それは上位に反日ソングが君臨するというものだ。

日本人を罵倒する曲や日の丸を引き裂く韓国のロックバンドなど韓国でも問題視されているものがある。



今回はそんな“K-POP”事情を紹介したい。


『fUKk z APAN』百済(baek-je)

この曲は日本人をバカにした内容の歌詞で話題になっている。

一部日本語なので聴けばわかるだろう。

日本人の発音のおかしさに対して「障がい者」「糞日本人」などという罵倒入りの歌詞で歌う曲だ。

皮肉にもインディーズチャートにて2位を記録するほどヒットしてしまった。


http://www.youtube.com/watch?v=H6pZ6N_gdYA



『独島は我が領土』少女時代

今韓国で大人気のアイドルグループ、少女時代がリハーサルの際に歌った曲。

これは『独島は我が領土』を歌って反日活動。

しかし日本での活動に支障が出るとのことで本番で歌わなかったようだ。



http://www.youtube.com/watch?v=3icx2yMVkW4


『東京は我らの領土』

タイトルの通り、反日歌詞にて話題になった曲。

動画には字幕が付いているので内容もわかるはず。


http://www.youtube.com/watch?v=a4ZwwYPogiE


『韓国の国歌』ノーブレイン

『フジロックフェスティバル2001』にてノーブレインというロックバンドが日の丸を引き裂いた。


http://www.youtube.com/watch?v=4CZBclM6pGM


これら紹介してきたのは一部に過ぎない。

また反日ソングは韓国だけでなく中国にも存在する。

ではこれらの曲は日本や韓国で問題視されないのだろうか? 

現在のところその事実を知っていても日本のマスコミは知らぬ存ぜぬを通しているようだ。

事実『少女時代』はNHKニュースのトップに扱われるほどだ。


数年前からの韓流ブームは某広告代理店により作られたものだとされているが、

そう考えると今回の『少女時代』の扱いなどもひもづけることができる。


日本では嫌韓ソングが存在しないのが不思議なくらいだ。

                (ここまでまぐまぐニュースから)



とまぁこんな具合なんだが、我々がロックにのめりこんでいた60年代、ロックは反体制の象徴だった。


シカゴ、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングなど反体制的なグループは多くの若者から支持されていた。

ジミ・ヘンドリックスはベトナムに落とされる爆弾の音をアメリカ国歌にのせて表現した。



モンタレーでジミはギターに火をつけて燃やしちゃったけど、アメリカ国旗に火をつけただろうか。
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9月4日ついにこの日、おいさんの乗る131号機の走行メーターが1周するという快挙(?)をなしとげました。


「もう、そろそろだなぁ」とおもいつつメーターをチラチラみながら走りました。

判田のマルショクの前でついに999999のリーチ!





「やった!」

次はどうなるのだろう。


まさか暴走!?


期待と不安を交えながら「白滝橋あたりで来そうだな」

チラチラとメーターを見ながら走ります。

そのうちに白滝橋は過ぎてしまい、「じゃぁ、ローソンあたりかな?」

しかし、そのローソンも過ぎてしまい、気がつくともやし屋の前。


「メーターは?」





リーチがかかったまんま、あがれません。


そこでやっと理解できました。

デジタルでは999999までしか入力されていないのだ。


その次はデジタルにとって未知なる領域だったのだ。


アナログ・メーターなら全回転して、また0からスタートしてるだろう。

アナログは車が壊れるまで回り続ける。

CDプレーヤーだって演奏が終われば止まるのに、アナログのレコードプレーヤーはパチッパチッと

レコードの最後の溝を再生し続けるのだ。


なんとけなげというか、アホというか。


一方、デジタルはまあなんと融通のきかない代物だろうか。


これからは融通のきかない人をデジタリアンと呼ぼう

今日は8月31日、夏休み最後の日だ。


子供のころ、毎年この日は年に一度というくらい、早起きをして夏休みの
宿題に取り掛かっていた。

「夏の友」という宿題帳だったなぁ。

夏休み分を一日でやるのだから、気合を入れて。

日記も思い出しながら書くから、適当につじつまを合わせなければならない。


「あー、少しずつやっときゃよかったなぁ。」なんて思っても後の祭り。

「後悔、役にたたず」とはよく言ったもの。

早起きしているから昼過ぎには眠気をもよおし、ちょいと一休み。

気がつくともう夕方。

「やべっ!」


夏休みの総決算をこの一日に集中するのだ。


「なんで一日は24時間しかないんだろう。」


毎年恒例の夏休みでした。


,:*:・゜☆。:・★゜・::・゜☆。:・,:*:・,:*:・゜☆。,:*:★゜・:



もう1分1秒も無駄に出来ないあなたにお届けします。


オールマン・ブラザーズ・バンドのAIN'T WASTIN' TIME NO MORE(時はもう無駄にできない)




泣けるスライド・ギターだけど、デュアンじゃなくてディッキー・ベッツ
だから、

そこんとこ  夜・露・死・苦

中学生になったころ、オヤジがエレキ・ギターを買ってくれた。

グヤ・トーンというメーカーのギターだった。


家にあった大型ラジオを改造してアンプにした。

昔のラジオは入力回路がついていたので、シールドの先っちょをつなぐとラジオから大きな音がでた。


グォーン、テケテケテケテ、エレキ小僧の誕生だ。


当時は持ってるだけで「不良」のレッテルを貼られた、エレキ・ギター。

いろいろ言われるのはイヤだから勉強は手を抜かなかった。

中間テストや期末テストは得点と学年順位が発表される。

学年で10番以内を維持してたから、先生もエレキのことは言えなかった。


勉強よりも必死に聴いていたのはもちろんベンチャーズ

ノーキー・エドワーズのようにうまく弾きたかったな。


 スリ切れるくらい聴いたノック・ミー・アウト


テケテケテケテケの毎日。

「パイプライン」「ダイヤモンド・ヘッド」「クルーエル・シー」なんか練習したね。


こうなるとバンドを作りたくなる。

小学生のころから合奏部に入ってたし、中学はブラバンだったから合奏することは大好きだった。

おなじくギターを買ってもらったカトウ君とバンドを作った。

彼のギターはモラレスというモズライトのベンチャーズ・モデルのコピーだ。

かっこよかったなぁ。

おなじブラバンでトランペットを吹いていた、ジュンとノダがドラムとベースで参加した。


毎週日曜日にはおいさんちの雨戸を閉め切ってバンドの練習だ。

さぞかし近所のひんしゅくを買っていたに違いない。


すぐ近所で葬式があった日にはさすがに中止した。(苦情がきたから)


 あるスタジオでの練習風景


一度だけ同級生のお父さんが経営するスタジオを借りて練習したことがあった。

大きなアンプとドラムセットでなんだかうまくなった気がした。



このバンドは中学3年を卒業するころ、とある養護学校で最初で最後の慰問ライブを行なった。





“白人”ブルース・ハープの第一人者「ポール・バターフィールド」。

この人がいなかったら、アメリカのロックはどうなっていたか分からなかっただろう。

1940年代はブルースなんてジャズとともに、黒人の音楽として白人からは忌み嫌われた存在であった。

シカゴに生まれ、シカゴ・ブルースにどっぷりとつかっていたポールはシカゴ大学へと進学した。

そこでマイク・ブルームフィールド(g)、エルビン・ビショップ(g)、マーク・ナフタリン(org)と出会いバンドを結成する。

当時白人がブルースを演奏すること自体イヤな顔をされたことに加え、ベース、ドラムといったリズム・セクションを

黒人のベテラン・プレーヤーで固めたことはすごく衝撃的なことだった。


 ポール・バターフィールド・ブルース・バンド


1965年アメリカの音楽界、とくにフォーク・ソングが主流だったアメリカン・ロック・シーンに衝撃的な事件がおきる。


ニューポート・フォーク・フェスティバルでボブ・ディランがポール・バターフィ-ルド・ブルース・バンドをバックに演奏した。

フォーク・ギターをエレキに持ち替えたボブ・ディランには拍手とブーイングの嵐。

 ニューポート・フォーク・フェスのボブ・ディラン

賛否両論、すったもんだあったけどこのあと多くのロック・ミュージシャンがブルースに注目するようになる。(アメリカ限定のお話)


ポール・バターフィールド・ブルース・バンドの登場はひとつのベル・エポックだったのだ。


マイク・ブルームフィールドはこのあとアル・クーパーと歴史的アルバム「フィルモアの奇蹟」に参加する。



イギリスはといえば、人種差別なんてないから古くから多くのミュージシャンがブルースにハマッていた。

ビートルズをはじめ、ジョン・メイオール、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ・・・数え切れないくらいだ。


アメリカの人種差別では黒人音楽(JAZZ、ブルース、R&Bなど)が認知されるまで多くの時間と忍耐が必要だった。




もー、暑い、暑い。

30何度を超えてるとかいってるけど、暑くて新聞を読む気にもならないから、世の中どーなってるかわからない。

読んだからと言って涼しくなるわけじゃないからなぁ。


こんな日にはピアノを聴こうか。




キース・ジャレットのThe Melody At Night With You



自身を襲った、慢性疲労症候群の療養中に自宅で録音されたという。

キース独特のうなり声もなく、飾りもなく耽々と音は続く。


シンプルでいい。


ライナーには闘病生活の支えとなった妻へのメッセージが書いてある。

いいなぁ夫婦愛か・・・


外は暑い日ざしがさしていたけど、カーテンをゆらす風を心地よく感じたのは気のせいだったのだろうか。

ビートルズ脱退後のポール・マッカートニー作品では、最高傑作といわれている、「Band on the Run」

 Band on the Run/ポール・マッカートニー&ウイングス

確かに我が家でもこのディスクがターン・テーブルにのる回数は多い。


このアルバムはアフリカはナイジェリアのラゴスで録音された。

出発直前のメンバーの脱退騒ぎで、ウイングスのメンバーはポールとリンダ、デニー・レインの3人だけ。


ジャケットにもこだわりをみせ、囚人がスポット・ライトで照らされたという趣きの写真には、

ウイングスの3人にのほか、俳優のジェームズ・コバーンが登場している。(真ん中一番上)


裏ジャケットには3人の写真とスケジュール表が写っている。

 バンド・オン・ザ・ランの裏ジャケ


ロンドンのガトウィック空港をBR355便のエコノミー・クラスで出発し、

3週間、スタジオでレコーディングに費やし、9月26日にBR364便で帰国するといった内容が見て取れる。

メモや筆記用具などが、こぼした紅茶のシミといっしょに撮影されていて楽しい。


ビートルズの亡霊から開放されたがごとく、マッカートニー・ミュージックを完成させた内容であるといえよう。

1曲目の「バンド・オン・ザ・ラン」からドライブ感あふれる「ジェット」、メロディアスな「ブルーバード」と続き、

「ピカソの遺言」では「ジェット」と「ミセス・ヴァンデビルト」のメロディーが挿入され、遊び心でいっぱいだ。

最後の「西暦1985年」ではエンディングに「バンド・オン・ザ・ラン」のメロディーを使い、

トータル・アルバムとしての完成度をあげている。


ポールはこのアルバムでベースはもちろん、ギター、ドラム、シンセとマルチ・プレーヤーぶりを発揮している。


リンダは・・・バック・ボーカルだけ?

まっいいか、もともと彼女はカメラマンだし、キレイだから許しちゃおう。

もう20数年前の思い出。

輸入をやろうなんて一大決心をして、航空券とユーレイル・パスをにぎりしめて、

フランクフルトへ向かう機上の人となったのでした。


知り合いがいたのでエアランカというスリランカの航空会社で行きました。

成田からシンガポール、コロンボ、ドバイ、そしてフランクフルトへ。

約25時間の旅です。

なんか4回ぐらい食事が出たと記憶しています。

コロンボからはステップ・アップしてファースト・クラスでした。(ラッキー!)

機材が全日空のお古だと言うことでちょっぴり心配でしたが、サービスは抜群でした。


それはさておき、シンガポール、コロンボ、ドバイと着陸するとき、なぜか、いつもこの曲が流れていました。


だんだんと高度を下げていく飛行機の窓から海、ヤシの木がだんだん近づいくる。

いまにも車輪を引っ掛けそうな高さでドキッとしながら着陸する。

そんなシチュエーションの中で、この曲が印象強く流れていた。





STARSHIPの「SARA」


誰の曲かわからないまま帰国して1年くらいたったある日、FMで流れているのを聴いて、

初めてスターシップの「SARA」だと言うことを知った次第。


いまでも飛行機の窓から見えた景色がオーバーラップしてしまう。


当時を思い出してしまう曲です。

今でもときどき引っ張り出しては聴いている一枚。

おいさんの好きなミュージシャンの一人、スティーヴ・ウィンウッドの「ARC of a diver」。



スペンサー・デイヴィス・グループでは若干18才ながら、グループのヴォーカル、ギター、キーボードをこなし、

そのマルチプレーヤーぶりを披露した。

トラフィック、ブラインド・フェイス、ジンジャー・ベイカー&エアー・フォース、トラフィックの再結成を経て、

隠遁生活のあとに発表され、700万枚をセールスした。


印象的なシンセのイントロで始まる、「WHILE YOU SEE A CHANCE」。

この1曲だけで十分満足です。


ジャケットの内袋(おいさんのは輸入アナログ盤です)には3人が詩を書いたと記載されている。

ということはスティーヴはもっぱら曲づくりに専念したということか。


このひとは隠遁生活が好きなようだ。




2005年に発表されたエリック・クラプトンのBACK HOMEにひさびさの参加。


エリックがカバーした、ジョージ・ハリスンの「愛はすべての人に」で彼らしいシンセを聴かしてくれる。

ジョージの曲をエリックがカヴァーしていることもあるが、このシンセ・ソロは涙もんでっせ。

我が家で一番長生きの電化製品。



三菱電機製。

いつごろの製造でしょうか。

おいさんが中学生の頃すでに家にありました。

中学生の頃、雨戸を閉め切った、自宅の2階でこの風にあたりながらバンドの練習をした記憶がある。


ということは40年以上はたっているのだ。

今も現役、ビュンビュンまわってます。

夏は風呂上りにちょっと、冬でもサーキュレーター代わりに使ってます。

ほとんど一年中使っているのだが、スイッチを切り忘れるくらい静かだ。

メーカーは35年以上たった家電製品は使用するな、といっているがまだまだ十分いけまっせ!


そしてこの扇風機にはリモコンがついているのだ。


 スイッチ部分が取り外せる・コードは左のボックスに収納



コードレスではないが、スイッチ部分が取り外せるのだ。

60分のタイマーもついてるし、コードも巻き取れ、昭和40年代の初期にしてはずいぶんイケてるシロモノだったのだ。


40年以上もたってまだバリバリ。


おいさんちの経済状況を考えると故障なんかしてられねぇんだよ。

突然、故障するのが先か、おいさんがくたばるのが先か。


2人の老兵は毎日無言で向き合っている。
!!!???

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