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JAZZとROCKが 三度のめしより好きな おっさんの戯れ言

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あるブログランキングのサイトで、「おいさんのとっぱくろ」があるカテゴリーで第1位になってしまった。


そのカテゴリーとは、なんとまぁ「ヤードバーズ」


うーん、こまったなぁ。

あっしには身に覚えのねぇことでござんすよ。

ヤードバーズなんて正面切って記事にしてないし、あまり好きなグループでもないしなぁ。


エリック・クラプトンやジェフ・ベック、ジミー・ペイジはよく聴いてるから何度か記事にした。

まぁ彼らのことを記事にすればどこかでヤードバーズの名前くらい出したかもしれない。


3人も成功したギタリストを輩出したから伝説のバンドになっちゃったけど、アメリカにはこういうバンドがあったっけ?


強いてあげるとバッファロー・スプリング・フィールドかな。






磁石のNとSのように反撥しあうニール・ヤングとスティヴン・スティルスはCSN&Yを結成したし、

リッチー・フューレイとジム・メッシーナはポコを結成し、やがてイーグルス、ロギンズ&メッシーナと派生していった。



この頃の映像をみると、「猿の惑星」の猿が紛れ込んでギターを弾いていた。

あっ、ニール・ヤングだった。
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ハード・ロック皆無のアメリカで忘れちゃいけないのが、グランド・ファンク・レイルロード。

ギター、ベース、ドラムの編成でサウンドの薄さがちょっと気になるけど、

アメリカン・バンドにはめずらしくグイグイ押してくる。

 オン・タイム

一番印象的な曲が「ハート・ブレイカー」。

ツェッペリンにも同名の曲があるけど、まったくの別物。

後半の盛り上がりはツェッペリンをも食っちゃうくらい凄まじい。


1971年に後楽園球場(東京ドームじゃないよ)でライブがあった夜、チケットがとれなくてなぜか新宿をうろついてた。

そういえば、「ハート・ブレーカー」ってうちのバンドでやってたなぁ。

今聞くとなつかしいなぁ。


あっ、針飛びした!

 ビー・ア・ブラザー


デビュー・レコードかどうかはわからないが、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーのアルバム

「ビー・ア・ブラザー」。

ジャケット裏の写真にはメンバー6人が並んで写っている。

このままいっても、平凡なバンドで終わるだろうと思われたとき、この女性がバンドの名を高めてくれた。


・・・彼女の名は、ジャニス・ジョプリン。


このレコードでは彼女はまだメンバーとしてのクレジットはない。

バッキング・ボーカルの一人としてフレンズの扱いににすぎない。


1967年のモンタレー・ポップ・フェスでのジャニスのボーカルが評判となり、

翌年発表された「チープ・スリル」で成功をおさめた。


 チープ・スリル


この一枚だけでジャニスはバンドを去るが、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーの名は

人々の記憶に残ってしまった。



ジャニスはその後、「コズミック・ブルースを歌う」「ジョプリン・イン・コンサート」を出して

「パール」制作中に急死する。


稀代まれなロック・ボーカリストとしてその名を遺した。


合掌



まだ高校3年生のころ、受験勉強の真っ最中。

サイフォンでいれたコーヒーを飲むことが好きだった。


深夜放送にも飽きて(勉強はとっくに飽きていた)モカをすすりながら、いつも聴いていたのが、これ。


 CHILD IS FATHER TO THE MAN


ブラッド・スエット&ティアーズの1st


ロックのレコードにはめずらしく、部屋を暗くして、ボリュームを落として聴くととてもよい気分になる。

ランディー・ブレッカーもいたし、JAZZっぽかったからだろうか。

エンディングのアル・クーパーのオルガンが心地よい。


当時はコラージュなんてものも知らず、ジャケットにも驚かされた。


愛すべき1枚だ。


BS&Tといえば、来日したとき、いとこのハルちゃんにチケットをもらったのに、

受験の日程があわずに見にいけなかったことはいまでも悔やまれる。


いろいろと、世話してくれたハルちゃんにはいまでも感謝してます。

ありがとね。

(ハルちゃんはその後、ある放送局の女子アナになり、サンプル・レコードをよくくれたのだ。)

中学生になったころ、オヤジがエレキ・ギターを買ってくれた。

グヤ・トーンというメーカーのギターだった。


家にあった大型ラジオを改造してアンプにした。

昔のラジオは入力回路がついていたので、シールドの先っちょをつなぐとラジオから大きな音がでた。


グォーン、テケテケテケテ、エレキ小僧の誕生だ。


当時は持ってるだけで「不良」のレッテルを貼られた、エレキ・ギター。

いろいろ言われるのはイヤだから勉強は手を抜かなかった。

中間テストや期末テストは得点と学年順位が発表される。

学年で10番以内を維持してたから、先生もエレキのことは言えなかった。


勉強よりも必死に聴いていたのはもちろんベンチャーズ

ノーキー・エドワーズのようにうまく弾きたかったな。


 スリ切れるくらい聴いたノック・ミー・アウト


テケテケテケテケの毎日。

「パイプライン」「ダイヤモンド・ヘッド」「クルーエル・シー」なんか練習したね。


こうなるとバンドを作りたくなる。

小学生のころから合奏部に入ってたし、中学はブラバンだったから合奏することは大好きだった。

おなじくギターを買ってもらったカトウ君とバンドを作った。

彼のギターはモラレスというモズライトのベンチャーズ・モデルのコピーだ。

かっこよかったなぁ。

おなじブラバンでトランペットを吹いていた、ジュンとノダがドラムとベースで参加した。


毎週日曜日にはおいさんちの雨戸を閉め切ってバンドの練習だ。

さぞかし近所のひんしゅくを買っていたに違いない。


すぐ近所で葬式があった日にはさすがに中止した。(苦情がきたから)


 あるスタジオでの練習風景


一度だけ同級生のお父さんが経営するスタジオを借りて練習したことがあった。

大きなアンプとドラムセットでなんだかうまくなった気がした。



このバンドは中学3年を卒業するころ、とある養護学校で最初で最後の慰問ライブを行なった。





ビートルズ脱退後のポール・マッカートニー作品では、最高傑作といわれている、「Band on the Run」

 Band on the Run/ポール・マッカートニー&ウイングス

確かに我が家でもこのディスクがターン・テーブルにのる回数は多い。


このアルバムはアフリカはナイジェリアのラゴスで録音された。

出発直前のメンバーの脱退騒ぎで、ウイングスのメンバーはポールとリンダ、デニー・レインの3人だけ。


ジャケットにもこだわりをみせ、囚人がスポット・ライトで照らされたという趣きの写真には、

ウイングスの3人にのほか、俳優のジェームズ・コバーンが登場している。(真ん中一番上)


裏ジャケットには3人の写真とスケジュール表が写っている。

 バンド・オン・ザ・ランの裏ジャケ


ロンドンのガトウィック空港をBR355便のエコノミー・クラスで出発し、

3週間、スタジオでレコーディングに費やし、9月26日にBR364便で帰国するといった内容が見て取れる。

メモや筆記用具などが、こぼした紅茶のシミといっしょに撮影されていて楽しい。


ビートルズの亡霊から開放されたがごとく、マッカートニー・ミュージックを完成させた内容であるといえよう。

1曲目の「バンド・オン・ザ・ラン」からドライブ感あふれる「ジェット」、メロディアスな「ブルーバード」と続き、

「ピカソの遺言」では「ジェット」と「ミセス・ヴァンデビルト」のメロディーが挿入され、遊び心でいっぱいだ。

最後の「西暦1985年」ではエンディングに「バンド・オン・ザ・ラン」のメロディーを使い、

トータル・アルバムとしての完成度をあげている。


ポールはこのアルバムでベースはもちろん、ギター、ドラム、シンセとマルチ・プレーヤーぶりを発揮している。


リンダは・・・バック・ボーカルだけ?

まっいいか、もともと彼女はカメラマンだし、キレイだから許しちゃおう。

もう20数年前の思い出。

輸入をやろうなんて一大決心をして、航空券とユーレイル・パスをにぎりしめて、

フランクフルトへ向かう機上の人となったのでした。


知り合いがいたのでエアランカというスリランカの航空会社で行きました。

成田からシンガポール、コロンボ、ドバイ、そしてフランクフルトへ。

約25時間の旅です。

なんか4回ぐらい食事が出たと記憶しています。

コロンボからはステップ・アップしてファースト・クラスでした。(ラッキー!)

機材が全日空のお古だと言うことでちょっぴり心配でしたが、サービスは抜群でした。


それはさておき、シンガポール、コロンボ、ドバイと着陸するとき、なぜか、いつもこの曲が流れていました。


だんだんと高度を下げていく飛行機の窓から海、ヤシの木がだんだん近づいくる。

いまにも車輪を引っ掛けそうな高さでドキッとしながら着陸する。

そんなシチュエーションの中で、この曲が印象強く流れていた。





STARSHIPの「SARA」


誰の曲かわからないまま帰国して1年くらいたったある日、FMで流れているのを聴いて、

初めてスターシップの「SARA」だと言うことを知った次第。


いまでも飛行機の窓から見えた景色がオーバーラップしてしまう。


当時を思い出してしまう曲です。

今でもときどき引っ張り出しては聴いている一枚。

おいさんの好きなミュージシャンの一人、スティーヴ・ウィンウッドの「ARC of a diver」。



スペンサー・デイヴィス・グループでは若干18才ながら、グループのヴォーカル、ギター、キーボードをこなし、

そのマルチプレーヤーぶりを披露した。

トラフィック、ブラインド・フェイス、ジンジャー・ベイカー&エアー・フォース、トラフィックの再結成を経て、

隠遁生活のあとに発表され、700万枚をセールスした。


印象的なシンセのイントロで始まる、「WHILE YOU SEE A CHANCE」。

この1曲だけで十分満足です。


ジャケットの内袋(おいさんのは輸入アナログ盤です)には3人が詩を書いたと記載されている。

ということはスティーヴはもっぱら曲づくりに専念したということか。


このひとは隠遁生活が好きなようだ。




2005年に発表されたエリック・クラプトンのBACK HOMEにひさびさの参加。


エリックがカバーした、ジョージ・ハリスンの「愛はすべての人に」で彼らしいシンセを聴かしてくれる。

ジョージの曲をエリックがカヴァーしていることもあるが、このシンセ・ソロは涙もんでっせ。



ご存知LED ZEPPELINのファースト・アルバム


ドイツの飛行船、ツェッペリン号が爆発、炎上する衝撃的なジャケットで登場した。


ヤードバーズ時代にあたためておいた構想が開花した内容だ。

ジミー・ペイジが「これが俺の目指す音楽だ」と我々にたたきつけた挑戦状だ。

ロックの方向性を示した重要なアルバムの一つと言えよう。

まさにハード・ロックの夜明けだ。






ヤードバーズ時代のCDだ。

これじゃダメだとジミーも感じたのだろう。

まだ音が軽いのだ。


メンバーを総入れ替えする前のものだ。

やっぱりメンバーの違いがはっきりわかる。


一般的にはヤードバーズがツェッペリンになったとみられがちだが、ジミー・ペイジが新たにメンバーを探し、

便宜的にニュー・ヤードバーズと名乗っていたにすぎない。


3大ギタリストを輩出したグループとして知られるヤードバーズだが、残りのメンバーだけではたいしたことはない。

この3人がすご過ぎるのだ。




余談だがこのファースト・アルバム、裏のメンバーの写真はジミーを除いてみんな間違い。

写真が入れ替わっている。




当時はハード・ロックの頂点に立つバンドになる、なんて思われてなかったのか、

アトランティック・レコードもとんだミスをしたもんだ。
この横を向いた人、ジャクソン・ブラウンです。

知ってる人は知ってるでしょうけど。


 HOLD OUT/Jackson Browne


のめりこんで聴くより、気が向いたら棚からひっぱりだして「元気かい?」

てな感じで聴くほうがBESTかな?


デビュー仕立ての頃よりウエスト・コーストぽくなくて、おいさんは好きですね。

なぜか落ち着きますね。


レコードの内袋(おいさんはまだレコードです)には歌詞が印刷されていて、

これほど心の痛みを歌い上げる歌手を知りません。

輸入盤には歌詞の対訳がないので、こんなには理解できません。

ジャクソン・ブラウンは国内盤を買いましょう。
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